ふらふらと生きる。

ルサンチマンオーラを身に纏う *** 京大の大学院に受かったことあります。が、笑えないほど底辺

返報性の原理とコミュ障

個人的な知り合いでもあり、ブロガーとしても有名な坂爪氏が語っていたことだが
坂爪氏には、直球な「お金くれ」というメールが来るらしい。(実際のメールの文章は長文というから…)
坂爪氏によると、そういうあげるもらうのやり取りにレベルがあるとして、お金をもらうということはレベル5(数字は具体的なものじゃなくイメージ、最大という意味)である。さすがにいきなりお金くれっていわれてもちょっと無理ですよと。
(中間はごはんをおごるとかだろうか。)
何かもらいたかったりして、そのようなやり取りのレベル0があるとしたら、自分が"先に"何かあげることである。といっていた。

さらに彼の体験では、
自分が好きな本をたまたま複数持っていたのでFacebookだか動画だかで欲しい人を募集してそれをあげた。そしたら、今度は逆に何かお返しといった形でものをくれたと。

そのようなことを語っていた。


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ところで、
この坂爪氏の話は、経済関係の心理で返報性の原理として知られているものだ。

ぶっちゃけビジネス関係では、その心理の法則を知ってていわば、戦略的に利用したりする。

と書くと、なんか坂爪くんをディスってるようだが、間違ってもそうじゃない。

坂爪くんのブログを読めば分かるが、坂爪くんはいろんなことをよく考えるひとだけど、純粋というか本能的に動くひとらしく、間違ってもひとへのプレゼントも打算的に、モノ貰えるんじゃないかと思ってやっているわけじゃない。あげたいからあげてるだけだ。(坂爪くんがもし打算的なひとだったらあんなすごい生活してないだろう。)

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ここで私のようなコミュ障の場合だ。
私はビジネスでの返報性の原理なんてのを知っている。そのせいで、なんかあげようとかプレゼントとかするとき、相手にコイツは打算的に、あるいは損得でひとにモノあげたりなんかしてると思われるんじゃないかと思ってしまうわけだ。


最近の例だと、
ブログで他人の記事を引用すると、その人に通知がいくようだ。そのせいで自分の記事を読んでもらえたりして嬉しいのは嬉しいのだが、
コミュ障の私の場合
読んでもらいたいために引用してると思われるんじゃないか、さらにいうと、売名のために引用してると思われるんじゃないか。と考えてしまう。
もっというと、私はその記事が好きで(やや無理にでも)引用したいと思ってしまうのだが、(そのはずなのだが) はたして私は純粋な気持ちで引用しているのだろうか、打算的にものを考えて引用しているんじゃないだろうかと。いろいろ巡ってしまう。

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もともと私はひとからものを貰うのが苦手だ。ものを貰った瞬間にお返ししなければいけないことがアタマによぎり、そのことが気になったりして、もはや純粋にものを貰うことを喜べない。(喜べてないような気がする)

社会人なら、何かものを貰ったり、お世話になったりしたらお返しするのは当然だ。とは思うが、当然だとするのは本当はやめてもらいたいと思っている。やめてもらわないと私はずっとこのような心理にさいなまれる。

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ツイッターのお気に入り程度なら、そんな私でも気軽に押すことができる。(ツイッターは素晴らしい。)

はてなのスターのやりとりも気軽にできる。

たぶん私の場合は逆に、ツンデレを想像して、「別にあんたのためプレゼントあげるんじゃないんだからね。見返りが欲しいだけなんだからね。」と開き直って考えるべきなんだろう。

売名のためにやってますと、その方が気持ちがラクだ。


*まとめ*
おまいら、〇〇をくれくれ思ってるなら、おまいらが先にあげなさい。