ふらふらと生きる。

ルサンチマンオーラを身に纏う *** 京大の大学院に受かったことあります。が、笑えないほど底辺

正論とか正義なんてものは本来ないんだ

自分も説明が下手な上、まとまってない部分もあり、何がいいたいか伝わらないかもしれないが、こんな記事を書いてみる。

 

よくネット上でも正論とかいう言葉を目にする。

あるいは、正義という言葉についてだ。

ある意味では数学でいう、公理がどうとかに近い考え方であり、

論理的思考に関する記事の続編でもある。

 

***

以前に

物理・数学の議論は正しいか正しくないか(ロジック)しかない。(もちらんニュークリアボムを作ってしまったなのど問題はあるが)

社会問題や経済なんかは、あっちをたたせるとこっちではマイナスを被るといったことなので難しい。(主義とかイデオロギーの話に移る)

と私は書いた。この後半の社会問題の部分の話だ。

 ***

本当は正論とか正義なんてものはないんだ。

(論理的に正しいはある)

 

具体例を上げて説明できれば、本当は分りやすいのだが、

なんか適当な社会問題などで正しいとか正論っていわれる場合がある。

その場合、現代において大抵の場合は、

「最大多数の最大幸福(功利主義)」を正しいと(勝手に)決めてその上で、何かその社会問題が正しいとか正しくないとかいう議論になる。

注:私の意見なのだが、実際は最大幸福ではなく、最大平均寿命となっている。面倒なのでここでは幸福とした。

 

この「最大多数の最大幸福」についてももっと切り込むことが出来て、最大多数を正しいとしていいのかとか、幸福を正しいとしていいのかなどある。

 

後半部については

幸福なことが正しいとする必要はどこにもない。人によってはさっきも言及したように寿命を延ばすことが正しいとしてもいいし、例えば、快楽が正しいとしてもよい。本能に忠実なものを正しいとしてもよい。他のヒトに迷惑をかけないあるいは最小限の迷惑を正しいとしてもいいし、哺乳類に迷惑をかけないとかを正しいにしてもいい。あるいは、単純に法律に書いてあることが正しいでもいい。

前半部については

個人の視点だけで、自分が幸福なことが正しいとしてもいいし、人類全体が幸福なことが正しいとしてもいい。

 

想像できるように社会問題においては、どれもメリットデメリットがある。あなたの主張はより根幹部で何に正しいを置いているのかを問いたい。

ただ私は、矛盾をディスりたいわけでも、ダブルスタンダードをディスりたいわけでもない。原理主義をおしすすめる方がいいことを主張したいわけでもない。

 

私がいいたいことは、正論や正義なんてものは本来ないというか勝手に決めるものだよということだ。

そして、繰り返しになるが

あなたが正しいとか正論とか正義という言葉を使うとき、より根幹部で何に正しいを置いているのか?

 

もしかしたら、先生が言っていたから正しいとか親が言っていたから正しいとかエラい人が言っていたから正しいとか、○○に書いてあったから正しいとかって人もいるかもしれないが、それを正しいとするならそれはそれでいい。

あるいは、歴史的に正しいとか伝統的に正しいとかか、まぁ思い付くのはいろいろあるが。