ふらふらと生きる。

ルサンチマンオーラを身に纏う *** 京大の大学院に受かったことあります。が、笑えないほど底辺

記事など作ったもののお蔵入りについて

今までブログ書いたり、曲作ったり、あるいはひとりでラジオとかとったりも実はした。

最近は記事をさらっと書いたらとにかくアップするようにしているが、
自分のなかでもうちょい練りたいとか、なんか考察足りてないとか、要するにクオリティ低いかなって、そんな感じでなんかあげるのを躊躇ったりすることがある。
実際に「時間をちょいおいてみよう」とかいっていったんあげるのをやめる。そうすると、その記事や作品がちゃんと磨きあげられた上でアップされることは極めて稀で、そのまま悲しいかな、お蔵入りするのである。
 
だから、前もブログなんて永遠のベータ版でいいとか言ったりしたわけだけど。
 
(あるいは、完璧主義の問題という側面もある。)
 
とにかく、微妙なクオリティだと思ったとしても、出した方がいい。
 
去年、曲も作ったりしたが、なんか結局ひとつも世にでることはなかった。どうにかこうにか微妙でもいまいちと思ってもなんでもいいから、一応形作りだけはして(曲とか文章が途中で切れてるとかだけ避けて)、出せばいい。
 
(ということは頭の中では分っているのだけれど、心に刻みたいということでこの記事を書きました。)
 
 
 
 
 

なぜあの人はあんなわけのわからない主張をいうのか

自分とはまるで違うことを言う人がいる。

 
もしかしたらこいつは頭がおかしいと思うかもしれない。
 
私も理解できるとか話せば分かるなんてウソだと書いてきた。
 
なぜあの人はあんなわけのわからない主張をするのか、たった今ウソと書いたことを覆すようだが、理解できる方法を示す。
 
*なぜそんな主張をするのか*
マンガでもよくキャラの過去の話がでるが要するにそういうことである。
どんなこども時代を送ったか。どんな体験をしたか。その時代はどんな風だったか。どんな性格か。どんな持病を持っているか。得意不得意なことは何か。好きなこと嫌いなことは何か。親はどんなだ。お金もちか貧乏か。
さらに言えば、男か女か。体格はどうか。容姿はどうだ。どの国に生まれたか。どんな気候で育ったか。分泌されるホルモンの量はどんなだ。トラウマなどはあるか。成功体験があるか。
 
などなど。
これらをすべて知ることができれば、なぜそんな主張するかを理解できる。(はず…)
 
ただ、普通はそれらすべてを明かさない。というか、その数%も明かすことはない。
 
***
 
話せば分かるなんていうのはウソである。と言いながらも、私は国交断絶は避けたい、面白くないといつも思っている。
 
だからこう言い換えよう。
1-2時間話せば分かるなんていうのはウソ。
けど、100-1000時間ぐらい話せば分かる(はず…いろいろ語ってくれれば)。
 
まぁ大抵は嫌なこととか思い出したくないこと語らないですからね。
また、しゃべってるとすぐディスってきたりとか、嫌なこと言ってきたりすれば、10分すら話すのもムリな場合もある。そもそも性格が合う合わないとか、似たような体験してるとかで会話が続く続かないありますからね。
 
そういう意味で結局はムリなんだけど。
 
 

正論とか正義なんてものは本来ないんだ

自分も説明が下手な上、まとまってない部分もあり、何がいいたいか伝わらないかもしれないが、こんな記事を書いてみる。

 

よくネット上でも正論とかいう言葉を目にする。

あるいは、正義という言葉についてだ。

ある意味では数学でいう、公理がどうとかに近い考え方であり、

論理的思考に関する記事の続編でもある。

 

***

以前に

物理・数学の議論は正しいか正しくないか(ロジック)しかない。(もちらんニュークリアボムを作ってしまったなのど問題はあるが)

社会問題や経済なんかは、あっちをたたせるとこっちではマイナスを被るといったことなので難しい。(主義とかイデオロギーの話に移る)

と私は書いた。この後半の社会問題の部分の話だ。

 ***

本当は正論とか正義なんてものはないんだ。

(論理的に正しいはある)

 

具体例を上げて説明できれば、本当は分りやすいのだが、

なんか適当な社会問題などで正しいとか正論っていわれる場合がある。

その場合、現代において大抵の場合は、

「最大多数の最大幸福(功利主義)」を正しいと(勝手に)決めてその上で、何かその社会問題が正しいとか正しくないとかいう議論になる。

注:私の意見なのだが、実際は最大幸福ではなく、最大平均寿命となっている。面倒なのでここでは幸福とした。

 

この「最大多数の最大幸福」についてももっと切り込むことが出来て、最大多数を正しいとしていいのかとか、幸福を正しいとしていいのかなどある。

 

後半部については

幸福なことが正しいとする必要はどこにもない。人によってはさっきも言及したように寿命を延ばすことが正しいとしてもいいし、例えば、快楽が正しいとしてもよい。本能に忠実なものを正しいとしてもよい。他のヒトに迷惑をかけないあるいは最小限の迷惑を正しいとしてもいいし、哺乳類に迷惑をかけないとかを正しいにしてもいい。あるいは、単純に法律に書いてあることが正しいでもいい。

前半部については

個人の視点だけで、自分が幸福なことが正しいとしてもいいし、人類全体が幸福なことが正しいとしてもいい。

 

想像できるように社会問題においては、どれもメリットデメリットがある。あなたの主張はより根幹部で何に正しいを置いているのかを問いたい。

ただ私は、矛盾をディスりたいわけでも、ダブルスタンダードをディスりたいわけでもない。原理主義をおしすすめる方がいいことを主張したいわけでもない。

 

私がいいたいことは、正論や正義なんてものは本来ないというか勝手に決めるものだよということだ。

そして、繰り返しになるが

あなたが正しいとか正論とか正義という言葉を使うとき、より根幹部で何に正しいを置いているのか?

 

もしかしたら、先生が言っていたから正しいとか親が言っていたから正しいとかエラい人が言っていたから正しいとか、○○に書いてあったから正しいとかって人もいるかもしれないが、それを正しいとするならそれはそれでいい。

あるいは、歴史的に正しいとか伝統的に正しいとかか、まぁ思い付くのはいろいろあるが。

 


働きかた生き方の多様性とか、自分と違うものを受け入れられるかとかとか

多様性についての記事をいろいろ読んだ。(注:実は3月の11日に書いた記事です。事情により今アップすることになりました。)

聞こえよく言えばキューレーション、悪く言えばパクリ記事みたいなのかきます。
どんどん話はズレるのでご了承下さい。ただ共通のテーマとしては自分と違うものを認めることができるか。みたいな感じです。
 

いばや通信「正解を増やす」複数記事、一貫した主張)

 
最初の記事の話でつきています。
多様性は善だけど、合意形成は必要悪。
やや関係のない話ですが、男女の役割に差をつけたほうが全体の安定性を保つうえで有効なのでしょう。(対象性があったら破れるものです。物理の話ですが)多様性はコストがかかるようです。
坂爪くんの必死の訴えも虚しく、日本は生き方の多様性は広がっていないし、選択肢を増やそうということは聞こえはいいですが、受け入れられないようです。
じゃあ、どうやって多様性を認められるようになるか、多様性を善と説いても受け入れられないでしょう。私は坂爪くんのいうようにおれはこうやって生きているんだと身をもって示すしかないようです。
 
日本は都市部などはいくらか違いますが、ほぼ単一民族の状態です。そして島国です。そもそも生まれてからみんな同じという感覚が植え付けられるのてしょう。
ただ勿論メリットもあって、日本は例えば世界一安全な国です。生き方働きかたとは関係がないですが、多様性がないことのひとつのメリットでしょう。(生き方の多様性が増えれば犯罪が増えるという話ではありません)
 
ノマドなどの新しそうなキーワード聞かれる一方で、自営業は年々少なくなっています。私は詳しくないので、会社の雰囲気が多様性が広がっているかはわかりません。また、自営業が広がることが多様性いうわけではないとは思います。(働き方の多様性とは何かについては何も詳しくないです。)
会社をやめてフリーでというのもいっぱいホッテントリに入ります。はてなーには、そうじゃなくても、変なひとが目立つような印象は強いです。はてな村とは言われますが、住み人は非常にカラフルなようです。
私の大学の先生で「一匹狼の群れ」という表現を使っていました。はてなーがオンor オフラインで交流することは素晴らしいことだと思います。
 
***
 
ズレる話になりますが、
好きなことをして生きるとか(youtuberとか)、称賛もありますが、ディスられることも多いです。
なんでおれはこんなに苦しんでいるのにお前は楽しそうに金得ているだと
気持ちは確かにわかります。一見ラクで楽しそうなことやって稼いでるときくと、「きー悔しい。」みたいには私もなります。
マンガのように、おれが、(会社で)苦しみ背負うかわりにお前だけでも(好きなことで)生きてくれ。とはなかなかならないものです。
phaさんのブログのコメント欄でもさんざん働けと非難さらていたのが印象に残っています。
 
多様性は良いといいつつ、好きなことで生きていけたらと思いつつ、自分はそうなれないから、お前も認めない。そんな心理は誰しも有りますね。
どうでもいいですが、ラクしてそうなのに儲けてるというのは、よほど屍が積み上がっているのだと思いますね。
 
***
 
これもやや話がズレますが、
虐待を受けたこどもが虐待をしてしまう説を聞くことがあります。
自分の小話になりますが、ラーメン屋でバイトしていたときに、厨房で間違えたときにゴミ箱を思いっきりけって怒鳴られたことがあります。そのとき、この店長さては修行先で同じことやられたなとあとで直感しました。(理由はありますが、省略します)
親or先生or先輩or上司にやられて嫌だったことは、自分がその立場にたったときにやらないようにしようじゃないか。
自分が××だったときはもっと厳しかったぞ、なんていってはいけない。
 
***
 
教育でも個性を伸ばす教育なんていう標語が聞かれたときもありました。私の戯れ言では、個性なんて伸ばさなくていいから、個性を潰さない教育になってもらいたいです。
 
自分語りしかできない私のブログでは他人の選択肢を増やすなんてことはできそうにないです。
それでも、読んで素晴らしいと思った記事は紹介したりするので、そっちで見識を高めてくれればいいかなって。
 
 

テレビについて思い出と感想

テレビについての思いでとか感想とか書く。

テレビ離れといわれ長いことなるが、実際私もだいたい8年前くらいからテレビは無い生活をしている。ネットの存在は大きくネットをするようになってから、だんだんテレビいらないんじゃないかと思ってきたので、そのままテレビも古いやつで邪魔だったので捨てた。

 

自分の立ち位置は先にいっておくと今ではテレビアンチに近くなっている。しかももともと好きだった人のアンチなんで、その前提で読んでいただきたい。

ちなみに、自分は高校卒業するくらいまではテレビばかという感じでテレビ大好き人間だった。ちょーテレビ見ていた。

 

*テレビはつまんなくなったのか*

ネットではよくテレビはつまらなくなった。昔は面白かったとよく言われる。

本当なのだろうか。

私はほとんど今では見る機会はないが、年に数回実家に帰った時に見るので、そのときだけの感想なのだが、

私が見ていた90年代から2000年代前半と比べて、私はつまんなくなったとは感じていない。あまり変わらないと思っている。別に具体例を上げてどうこうは言えないが単純な感想である。今の番組を見ていてつまらんなぁ~と思うことがあるが、かといって昔を思い出しても、うーんどうなんだろうって。

その当時、私はテレビを好きで見ていた。じゃあなんで見なくなったのか。と聞かれたら、ネットの方がより自分に合っていて好きなものを見つけられたからだ。いまでも、実家に帰って番組表を見渡せば、わずかだが見たいと思う番組はある。高校生のテレビが好きだったころを思い返すと、わずかながら見たい例えば深夜番組とかをかかさずチェックしていた。量が増えているか減っているか厳密なところは分らないが…。

 

とはいいつつも、

つまらなくなったと指摘され、思いつくことは一つある。過激さだ。テレビは昔より過激さは減ったのじゃないかと私は思っている。自己規制という言葉が聞かれると大抵勢いがなくなる。そんなことはよくあることだ。

特に過激さを好む人(過激なことが面白いと思う人)は、今現在過激さについてはどう考えてもネットの方が上だ。そういう人はテレビはつまらなくなったと感じるかと思う。

じゃあなぜテレビは過激さを失ったかについてはまたの機会に。

 

*芸能人がキライになった*

芸能界、芸能人がキライになった。芸能人がわちゃわちゃ騒いでいるのも好きじゃないし、コメンテーター的な立ち位置の人も好きじゃない。

例えば、ドキュメンタリー的な番組があったとして、部分的に芸能人がコメントを挟むなら、そこは飛ばす。

全員が全員好きじゃないわけじゃない。好きな芸能人を答えろと言えば昔この人好きでしたはぜんぜん言える。

思い返すと高校生も卒業することには芸能人の好き嫌いは激しくなっていたかもしれない。大学に入ってからネットに浸り、二次元に浸り、その居心地の良さに、芸能人・芸能界のいやだなぁと思う部分が目立つように感じるようになった。そんな感じだろうか。

 

***

 

余談だが、芸能ニュースが特にキライ。これは高校のときからだが、芸能人の誰それが付き合ったとか別れたとか、訃報だとか、なになにがあっただとか。しかもキライで見た後いやな気持になるのに、正直なところ気になるというかそんなアンビバレンスな心理があった。今ではほとんど解き放たれて、芸能ニュースが気にならなくなった。というか知っている人もあまりでない。

 

*CMが異常にキライ*

ただそれだけ、CMを見るのが苦痛。番組と番組の間にだけ流れるならいくらか許せると思う。ただし、現状はそんなシステムになる見込みはない。

 

集中途切れる。番組の価値がほとんどなくなる。ただただサムい。番組の演出にCMの想定したものはもっとサムい。終わってる。

 

 

*世の中的にはテレビはちょー影響力がある*

つまらなくなったつまらなくなったと言われるけども、現状ちょー影響力がある。ツイッター見てても私のTLにアニメ以外のテレビのネタが放り込まれることはまずないが、ふいにヤフーのリアルタイム検索とかするのだが、そうするとテレビのことばっかりのように感じる。

ちなみに、テレビを全く見ない人は20代30代の一割程度の一部の層である。

 

 

*テレビの強さ*

なんといってもテレビの強さは能動的ではなく受動的であることだ。知り合いの弁護士がテレビは受動的であるゆえ最強、死なない。といっていたが、あまりにもネットに浸っている自分からすると、冷静だなと思った。

今の10代は生まれたときからネットがあり、小学生からスマホを持っているものの、そういう時代で育ってみても、やはり、人によってはグーグルで検索すらできないというか億劫というか興味がない人もいるようだ。(10年20年で変化の可能性はある)

 

子供でも高齢者でもスイッチをオンすれば、コンテンツが降り注ぐテレビは確かに最強かなと思う。

 

***

以上、もとテレビ好き現在ややアンチの人の思い出と感想でした。

 

 

 

接客されるのが苦手。

私は接客されるのが苦手だ。

今回の話では、例えばコンビニだとか、吉野家的な飲食店の接客についてではなく、
家電量販店とか服屋とか楽器やあるいは、アパートを借りるときとか、けっこう単価が高いやつについてだ。
家電もほとんどアマゾンだし、服はあんまり買わなくなったし、楽器もヤフオクとか多いし、アパート借りるなんて2回しか経験ないのだけれど。
だから、最近あった出来事というより思い出的なやつだ。
 
 
*なんで苦手かを先に列挙する*
・押しに弱いこと、その場の雰囲気にのまれやすく、はっきり断れない性格であること。
・販売員をあまり信用していないこと(副次的な要因)
・人のせいにするのを常に避けたいと思っていること。
 
 
私は押しに弱い。なかなかノーと言えない日本人的なところがあり、その場の雰囲気にのまれ、本当はさっさと断りたいと思っていてもなかなかその場を終わりにできなかったりする。
そして販売員のいわば信用性なのだが、例えば本当のことを言っているのかとか。その辺も正直あやしいと思っている。あるいはメリットばっかりいっているんじゃないかとか。私は販売員をしたことはないのだが良い商品より売りたい商品を薦めてくるものだと思っているのだか違うのだろうか。そのあたりは販売店の状況にもよるし、販売員によってももちろん違うのだろう。
販売員というものは、信憑性にかけるものだと思っている一方で、個人単体では別に疑ってかかるようなことはしない。むしろ信用しやすい方だ。そういう性格なところも影響ある。だから、できるだけ冷静に販売員の言っていることは事情があるかもというのを思いだすようにしている。
 
***
 
正直値段の高い買いものでも、自分のスタイルに合わなかったりだったり、単純にあんまりいいと思えるものじゃなかったりで、使用頻度が少なかったりするものがある。
 
要するにあんまり”いい買い物”じゃなかった場合について、その場合どうしても私は販売店の人が思い出される。それが値段の高いものならなおさら。
ひとりでネットで買ったのなら、自分のせい以外の何物でもないが、接客があった場合どうしてもその人のせいとかではないのだけれど、何か自分の中だけで処理できない気持ちになる。私は日常生活あらゆる面で、他人のせいにするのを常に避けたいと思っているので、そのせいもあるかと思う。
 
*対策*
・アマゾンやネット販売を利用する。
・できるだけ即決しない。
 
ネットで買い物すればいい。もちろんそうだ。しかしながら、いくらネットであらゆるものが帰るといっても限界があり、必ず避けられるとも限らない。そのときはどうするか。
(ものを買うこと自体じゃなくて)人とのやりとりがありものを買う、あるいは対面で契約みたいなときは、できるだけ即決せずにねばるというのは実践している方法だ。いくらか冷静になれるのじゃないかと思うし、接客にあたった人にへたに押せば何とかなると思われないという意味でも有効ではないかと思う。
 
 
結局、接客というのは、物を買うというだけでなく、その人物を買うみたいなところが生じるということなのだろう。
そんなの私はいらない。
 
 
 

断捨離とかミニマリストとか

私はちょー部屋が汚くて、汚いんですが。片づけが下手とかってよりは片づけをする気が起きないんです。(他人の部屋ならちょーきれいにできますよ)

 

ところで、ミニマリストというのがだいぶ前から気になっている。それに関する最近回ってきた記事(ホリエモンのツイートから)

人生に疲れた1000万円プレイヤーがたどりついた「ミニマリズム」(最小限主義)という価値 | ログミー[o_O]

上の記事の人は欲望からの脱却というか管理みたいな感じがします。

 

ミニマリストとはまた違うものの、坂爪氏(ibaya)も過激で所有を否定するみたいなところに辿り着いています。

 

また、寝太郎氏という人も過激というか独自の世界観というか哲学に入っています。

10万円で家を建てて生活する寝太郎のブログ

 

一般的なミニマリストは、たぶん一番目の人です。下二人は過激派です。ミニマリストでググッて上の方に引っかかるブログが一般的なミニマリストであるかと思います。

 

***

 

そもそも断捨離とかいうあまり聞かない言葉が流行ったのが5年くらい前になるでしょうか。その辺ころはせいぜい要らないものを捨てることで部屋をきれいにしようとか。気持ちもスッキリするよとか。

要らないものがあると空間を占拠していることになるから、部屋買うなり借りるなりしてるってことは空間にお金を払っているわけだから、その分、要らないものを所有するのはゼロ円どころかマイナスだよとか。

その程度だったはず。たぶん。

 

で、そのうちにミニマリストという言葉も現れだした。断捨離の延長線にあるようだが、その姿勢は非常にストイックだ。

 

ミニマリストは物を少なくするという姿勢自体は共通ですが、その方針や思想はそれぞれあるようです。以下私感です。

 

ミニマリストなどのブログを観察して感じたことー備えと不安ー*

 

備えあれば憂いなし。とかいう言葉があったりして、いざというときを考えて、これもいるんじゃないかと考えたりする。

 

本来は”備え”があれば”心配”がないはずなのだが、どうも”備え”があることが、むしろ心配を想起させるといった感じである。

 

***

 

人間(生物)は、(平均)寿命伸ばし、種を反映させることを繰り返してきた。実際、寿命は伸び、人口密度は上がった。

貯蓄・備蓄というのは、(平均)寿命を伸ばすことには欠かせない。

 

ここで、幸福度とかいういまいち適当な言葉を使わしてもらうが、幸福度と寿命とはあまり相関が無いように感じられる。

 

貯蓄がある。すなわち”備え”があるということは、何か心配を抱えている。寿命は伸ばすことには成功しているが、幸福度は高くない。といった状況。

 

(勿論、貯蓄が全く無いのはそれはそれで心配であり、だから、”備えあれば”の言葉があるのである(過激なミニマリストは特殊)。貯蓄が増えれば心配は減少するが、程度を超えると逆に上昇するといったところか?

ツールあるいはデータとしてのお金があること、と実際のモノがあることは違うとは思う。デジタルデータについてはどうなんだとか、人間関係がとかいろいろある。)

 

今の時代、情報はあふれ、あっちでもこっちでも不安を煽られている。知識が多いというのは、それだけ心配の種を知っているということだろうか。

 

そのため、断捨離ブームから始まりミニマリストなんてのが話題になるのかもしれない。

 

ちなみに、日本人は世界でも例をみないほど貯蓄が好きだ、と世界をいっぱい旅した人の本に書いてありました。

 

*私の部屋について*

 

私も部屋が汚いのは、受け入れるとして、できるだけものを持ちたくないです。

ミニマリストレベルが5段階あるとしたら、私はレベル1くらいですね。

物質的な欲求は少ないのですが、ヘンなものを入手すると全く捨てられないというのが、私です。食べ物を貰ったりすると賞味期限までとっておくクレイジーな奴です。

(満喫いくから)マンガは一切ないです。CDもなくなった(データはある。オンラインもある。)。本(テキストの類)は多少ある、やむを得ない。ファッションについても部屋が汚いからあまり高い服買おうという気にならなくなった。(部屋汚いひとが高い服買うのはまずよくない)

ただ、楽器があるのです。ゲーム機もあるのです。どちらも稼働率はちょー低いのに捨てるというわけにも…。思い出に関するモノも全く捨てられません。

 

とにかく最初の引用した記事の写真にあった”箱のタワー”を作ります。

 

 

*おまけ*