ふらふらと生きる。

ルサンチマンオーラを身に纏う *** 京大の大学院に受かったことあります。が、笑えないほど底辺

はてなでブログ書くようになって

それまでは自分のサイトでブログと称しテキストサイトみたいな感じでやっていたが、

 今年の1月初めにはてなでブログを書くようになって、だいたい4か月くらいたった。

非常によかったと思っている。

 

はてなブックマークを覚えた*

最初、はてなブックマークなんてものの存在は知らなかった。

まずその存在を知って、Twitterホッテントリをつぶやく公式アカをフォローして定期的に回ってくる人気らしい記事を読むのは面白かった。

しかも本当にはてぶを知らなかったから、はてぶコメントの意味も最初分らなかった。

しかし、いつの間にかその存在も知って、はてぶコメントを読むのも覚えた。

さらに、どうやらそこでややアレなコメントをするのも礼儀(笑)らしい(ちなみにそれを手斧を投げるというらしい)ので、自分も気分がいいときはするようになった。くせになる感じがする。

 

はてなブログ

特定の人のブログを定期的に観測するのに、まぁ便利なアプリがあることはなんとなく前から知っている。だが、アプリもすぐ増えたりするので導入するのが嫌だったりとか、実は保守的なところが私はあるので知らないサービスとか積極的に使いたくなかったから使わなかった。

しかし、はてなでログインすると購読するとかいうボタンがあるもんだからまぁ使ってみたら、だんだん増えていって今数えたら30人以上にもなっていた。(なんではてなダイアリーは購読できないんだ!)

はてぶコメントともアイコンが連携しているから、「あ、この人こんなコメントしてる。」っていうのを見るのも面白い。

はてな村とも言われるが、適当な検索ワードでブログに引っかかってそれがはてなブログだと、仲間は言い過ぎだけど、親近感みたいなのは湧く。逆にそのせいではてなブログじゃないと、「はてなじゃないのかよ~」みたいな気持ちになってしまう副作用もあらわれた。

とにかくより一層(はてなに限らず)ブログを読むようになってしまった。

 

*PV数*

1月から始めて、記事は32書いて、PV数は1365と表示されている。

PV数が1356ではあるが、だいたい20PV/dayの感じだ。これは多分少ない。

 

そんな中でリアルでの友人数人に実際に会ったりしたときに、「ブログ読んでるよ」って言われるのは嬉しかったし、なんか購読者がでたり、コメントがあったりで、これが承認による快感かと、悦に浸ってわけだ。

 

*ブログを書くこと*

ブログを書くこと自体はメリットが本当に多くて、前にも書いたような気がするから簡潔に書くことにする。

自分が書くと他の人がどんなこと書いているんだろうと気になり読む。気になるのをみつけて購読ボタンを押す。さっきも書いたように気づくと30人を超えていたわけだが、はてなーはいろいろな人がいて面白い。この人と会って話してみたいなーっていう人は正直いますね。

あと考えがまとまったりしていい。

”書いたこと”によりその内容がより意識付けられる。(これはメリットでありデメリットでもある)

ただ書く時間読む時間でかなりの時間を消費するので。困ったものですね。

疲れたり飽きたらやめるかもしれないし、あんまネタがないのに書くのもアレなんでね。結構いろいろ書いてもうネタ尽きてた…とかよく思うのですが…。

 

あと、重要なことですが、前のお蔵入りの記事とも関係があることで、一日で作業が完了(ブログを書ける)ということがとても良いです。寝かせないからその日でちゃんとだせる。それで、何かできたという快感から、ブログが続いているように思うのです。

 

 ***

 

こんな感じです。

 

 

 

 

スマホゲームのグランブルーファンタジーをやってみた

自分はゲームにはまったらがっつりはまるタイプで、そうなると他を何もしなくなってしまうということを知っている。それで去年は3カ月程度ゲーム以外何もしないというヤバイ過ごし方をした思い出があるので、スマホゲームだけは避けてきた。

 
しかしながら、つい友人に勧められて、グランブールファンタジーなるものをやってしまった。
この類のゲームは艦これだけやったことあったので、だいたいそんな感じかなーのイメージでスタートさせた。
 
*面白いか?*
結論的には微妙である。
要するにただ数字(強さのこと)が増えていくこと喜びを覚える。その数字も時間をとにかくかければいい。
強さの数字の伸びは最初どんどんあがるが、だんだん増えなくなるようになっている。やがては課金しないとほとんど伸びないくらいまでいく。
 
他のソーシャルスマホゲームもそうなのだろうけど、基本キャラゲーで豪華声優陣であり、ガチャなりでキャラが増えることに快感を覚える。
あるいは、強い武器か召喚獣をゲットすることに喜びを覚える。
 
デザインもいいし、音楽もあの植松伸夫だ。
ゲームの世界観や敵キャラ、召喚獣の二次絵を見ると、昔のFFやロマサガが思い出された。
 
 
極めて単純な連打ゲーではなく、いくらか戦略的なところはある。が、そこまでてはないというかどこかもの足りない感じは否めない。
 
このソーシャルゲームのヤバイところはそんなにゲームとして面白いと思えないのに何となくやってしまい、気付くとかなりの時間が消費されているというところである。
 
私は1000円ぐらい課金しようかと思ったが歯止めがきかなくなることをおそれ踏みとどまった。課金していないが、たぶん30時間以上はプレイした。もしかしたら50時間くらいやっているかもしれない。
 
やや批判的に書くとあまりこのゲームでは多くを語れる気がしない。ソーシャルゲームはゲーム性としては、だいたいはただ数字が増えてくゲームだと思う。あとは世界観やキャラで勝負かなと。そういう意味では艦これの方が私にはうまいこと行っているように思える。
 
世界観などからもっと魅力を感じてもいいような気がするのに、いまいち興奮しなかった。本当に残る感想は声優よかったなーぐらいである。これがソシャゲーなのかもしれない。
 
もうちょっと言うと、少なくともストーリーの魅力は一切なかった。声優は良かったもののキャクターが今の時代においてはベタ過ぎる。良くないわけではないが印象が薄い。たぶんゲーム作りの方針として過去のFFファンを取り込んだり、出来る限り幅広い層を取り込むことを狙っているからなのだろう。個人的にはヤンデレのお姉さまお姉さま言っているキャラだけは良かった。
 
言うても艦これもその当時あった面の残り2つくらい残して一切やってない。それでもグッツや二次創作的なものはお世話になっている。(私にとっては)感覚的にはゲームがおまけのようなそんな感じかなぁ。
 
30-50時間を費やしたことにネガティブな思いはあるが、スマホゲーはこんなもんかというのが分って良かった。私は持続的にというか断続的に続けるのは不得意なのであまりもうやらないかもしれない…。
 

記事など作ったもののお蔵入りについて

今までブログ書いたり、曲作ったり、あるいはひとりでラジオとかとったりも実はした。

最近は記事をさらっと書いたらとにかくアップするようにしているが、
自分のなかでもうちょい練りたいとか、なんか考察足りてないとか、要するにクオリティ低いかなって、そんな感じでなんかあげるのを躊躇ったりすることがある。
実際に「時間をちょいおいてみよう」とかいっていったんあげるのをやめる。そうすると、その記事や作品がちゃんと磨きあげられた上でアップされることは極めて稀で、そのまま悲しいかな、お蔵入りするのである。
 
だから、前もブログなんて永遠のベータ版でいいとか言ったりしたわけだけど。
 
(あるいは、完璧主義の問題という側面もある。)
 
とにかく、微妙なクオリティだと思ったとしても、出した方がいい。
 
去年、曲も作ったりしたが、なんか結局ひとつも世にでることはなかった。どうにかこうにか微妙でもいまいちと思ってもなんでもいいから、一応形作りだけはして(曲とか文章が途中で切れてるとかだけ避けて)、出せばいい。
 
(ということは頭の中では分っているのだけれど、心に刻みたいということでこの記事を書きました。)
 
 
 
 
 

なぜあの人はあんなわけのわからない主張をいうのか

自分とはまるで違うことを言う人がいる。

 
もしかしたらこいつは頭がおかしいと思うかもしれない。
 
私も理解できるとか話せば分かるなんてウソだと書いてきた。
 
なぜあの人はあんなわけのわからない主張をするのか、たった今ウソと書いたことを覆すようだが、理解できる方法を示す。
 
*なぜそんな主張をするのか*
マンガでもよくキャラの過去の話がでるが要するにそういうことである。
どんなこども時代を送ったか。どんな体験をしたか。その時代はどんな風だったか。どんな性格か。どんな持病を持っているか。得意不得意なことは何か。好きなこと嫌いなことは何か。親はどんなだ。お金もちか貧乏か。
さらに言えば、男か女か。体格はどうか。容姿はどうだ。どの国に生まれたか。どんな気候で育ったか。分泌されるホルモンの量はどんなだ。トラウマなどはあるか。成功体験があるか。
 
などなど。
これらをすべて知ることができれば、なぜそんな主張するかを理解できる。(はず…)
 
ただ、普通はそれらすべてを明かさない。というか、その数%も明かすことはない。
 
***
 
話せば分かるなんていうのはウソである。と言いながらも、私は国交断絶は避けたい、面白くないといつも思っている。
 
だからこう言い換えよう。
1-2時間話せば分かるなんていうのはウソ。
けど、100-1000時間ぐらい話せば分かる(はず…いろいろ語ってくれれば)。
 
まぁ大抵は嫌なこととか思い出したくないこと語らないですからね。
また、しゃべってるとすぐディスってきたりとか、嫌なこと言ってきたりすれば、10分すら話すのもムリな場合もある。そもそも性格が合う合わないとか、似たような体験してるとかで会話が続く続かないありますからね。
 
そういう意味で結局はムリなんだけど。
 
 

正論とか正義なんてものは本来ないんだ

自分も説明が下手な上、まとまってない部分もあり、何がいいたいか伝わらないかもしれないが、こんな記事を書いてみる。

 

よくネット上でも正論とかいう言葉を目にする。

あるいは、正義という言葉についてだ。

ある意味では数学でいう、公理がどうとかに近い考え方であり、

論理的思考に関する記事の続編でもある。

 

***

以前に

物理・数学の議論は正しいか正しくないか(ロジック)しかない。(もちらんニュークリアボムを作ってしまったなのど問題はあるが)

社会問題や経済なんかは、あっちをたたせるとこっちではマイナスを被るといったことなので難しい。(主義とかイデオロギーの話に移る)

と私は書いた。この後半の社会問題の部分の話だ。

 ***

本当は正論とか正義なんてものはないんだ。

(論理的に正しいはある)

 

具体例を上げて説明できれば、本当は分りやすいのだが、

なんか適当な社会問題などで正しいとか正論っていわれる場合がある。

その場合、現代において大抵の場合は、

「最大多数の最大幸福(功利主義)」を正しいと(勝手に)決めてその上で、何かその社会問題が正しいとか正しくないとかいう議論になる。

注:私の意見なのだが、実際は最大幸福ではなく、最大平均寿命となっている。面倒なのでここでは幸福とした。

 

この「最大多数の最大幸福」についてももっと切り込むことが出来て、最大多数を正しいとしていいのかとか、幸福を正しいとしていいのかなどある。

 

後半部については

幸福なことが正しいとする必要はどこにもない。人によってはさっきも言及したように寿命を延ばすことが正しいとしてもいいし、例えば、快楽が正しいとしてもよい。本能に忠実なものを正しいとしてもよい。他のヒトに迷惑をかけないあるいは最小限の迷惑を正しいとしてもいいし、哺乳類に迷惑をかけないとかを正しいにしてもいい。あるいは、単純に法律に書いてあることが正しいでもいい。

前半部については

個人の視点だけで、自分が幸福なことが正しいとしてもいいし、人類全体が幸福なことが正しいとしてもいい。

 

想像できるように社会問題においては、どれもメリットデメリットがある。あなたの主張はより根幹部で何に正しいを置いているのかを問いたい。

ただ私は、矛盾をディスりたいわけでも、ダブルスタンダードをディスりたいわけでもない。原理主義をおしすすめる方がいいことを主張したいわけでもない。

 

私がいいたいことは、正論や正義なんてものは本来ないというか勝手に決めるものだよということだ。

そして、繰り返しになるが

あなたが正しいとか正論とか正義という言葉を使うとき、より根幹部で何に正しいを置いているのか?

 

もしかしたら、先生が言っていたから正しいとか親が言っていたから正しいとかエラい人が言っていたから正しいとか、○○に書いてあったから正しいとかって人もいるかもしれないが、それを正しいとするならそれはそれでいい。

あるいは、歴史的に正しいとか伝統的に正しいとかか、まぁ思い付くのはいろいろあるが。

 


働きかた生き方の多様性とか、自分と違うものを受け入れられるかとかとか

多様性についての記事をいろいろ読んだ。(注:実は3月の11日に書いた記事です。事情により今アップすることになりました。)

聞こえよく言えばキューレーション、悪く言えばパクリ記事みたいなのかきます。
どんどん話はズレるのでご了承下さい。ただ共通のテーマとしては自分と違うものを認めることができるか。みたいな感じです。
 

いばや通信「正解を増やす」複数記事、一貫した主張)

 
最初の記事の話でつきています。
多様性は善だけど、合意形成は必要悪。
やや関係のない話ですが、男女の役割に差をつけたほうが全体の安定性を保つうえで有効なのでしょう。(対象性があったら破れるものです。物理の話ですが)多様性はコストがかかるようです。
坂爪くんの必死の訴えも虚しく、日本は生き方の多様性は広がっていないし、選択肢を増やそうということは聞こえはいいですが、受け入れられないようです。
じゃあ、どうやって多様性を認められるようになるか、多様性を善と説いても受け入れられないでしょう。私は坂爪くんのいうようにおれはこうやって生きているんだと身をもって示すしかないようです。
 
日本は都市部などはいくらか違いますが、ほぼ単一民族の状態です。そして島国です。そもそも生まれてからみんな同じという感覚が植え付けられるのてしょう。
ただ勿論メリットもあって、日本は例えば世界一安全な国です。生き方働きかたとは関係がないですが、多様性がないことのひとつのメリットでしょう。(生き方の多様性が増えれば犯罪が増えるという話ではありません)
 
ノマドなどの新しそうなキーワード聞かれる一方で、自営業は年々少なくなっています。私は詳しくないので、会社の雰囲気が多様性が広がっているかはわかりません。また、自営業が広がることが多様性いうわけではないとは思います。(働き方の多様性とは何かについては何も詳しくないです。)
会社をやめてフリーでというのもいっぱいホッテントリに入ります。はてなーには、そうじゃなくても、変なひとが目立つような印象は強いです。はてな村とは言われますが、住み人は非常にカラフルなようです。
私の大学の先生で「一匹狼の群れ」という表現を使っていました。はてなーがオンor オフラインで交流することは素晴らしいことだと思います。
 
***
 
ズレる話になりますが、
好きなことをして生きるとか(youtuberとか)、称賛もありますが、ディスられることも多いです。
なんでおれはこんなに苦しんでいるのにお前は楽しそうに金得ているだと
気持ちは確かにわかります。一見ラクで楽しそうなことやって稼いでるときくと、「きー悔しい。」みたいには私もなります。
マンガのように、おれが、(会社で)苦しみ背負うかわりにお前だけでも(好きなことで)生きてくれ。とはなかなかならないものです。
phaさんのブログのコメント欄でもさんざん働けと非難さらていたのが印象に残っています。
 
多様性は良いといいつつ、好きなことで生きていけたらと思いつつ、自分はそうなれないから、お前も認めない。そんな心理は誰しも有りますね。
どうでもいいですが、ラクしてそうなのに儲けてるというのは、よほど屍が積み上がっているのだと思いますね。
 
***
 
これもやや話がズレますが、
虐待を受けたこどもが虐待をしてしまう説を聞くことがあります。
自分の小話になりますが、ラーメン屋でバイトしていたときに、厨房で間違えたときにゴミ箱を思いっきりけって怒鳴られたことがあります。そのとき、この店長さては修行先で同じことやられたなとあとで直感しました。(理由はありますが、省略します)
親or先生or先輩or上司にやられて嫌だったことは、自分がその立場にたったときにやらないようにしようじゃないか。
自分が××だったときはもっと厳しかったぞ、なんていってはいけない。
 
***
 
教育でも個性を伸ばす教育なんていう標語が聞かれたときもありました。私の戯れ言では、個性なんて伸ばさなくていいから、個性を潰さない教育になってもらいたいです。
 
自分語りしかできない私のブログでは他人の選択肢を増やすなんてことはできそうにないです。
それでも、読んで素晴らしいと思った記事は紹介したりするので、そっちで見識を高めてくれればいいかなって。
 
 

テレビについて思い出と感想

テレビについての思いでとか感想とか書く。

テレビ離れといわれ長いことなるが、実際私もだいたい8年前くらいからテレビは無い生活をしている。ネットの存在は大きくネットをするようになってから、だんだんテレビいらないんじゃないかと思ってきたので、そのままテレビも古いやつで邪魔だったので捨てた。

 

自分の立ち位置は先にいっておくと今ではテレビアンチに近くなっている。しかももともと好きだった人のアンチなんで、その前提で読んでいただきたい。

ちなみに、自分は高校卒業するくらいまではテレビばかという感じでテレビ大好き人間だった。ちょーテレビ見ていた。

 

*テレビはつまんなくなったのか*

ネットではよくテレビはつまらなくなった。昔は面白かったとよく言われる。

本当なのだろうか。

私はほとんど今では見る機会はないが、年に数回実家に帰った時に見るので、そのときだけの感想なのだが、

私が見ていた90年代から2000年代前半と比べて、私はつまんなくなったとは感じていない。あまり変わらないと思っている。別に具体例を上げてどうこうは言えないが単純な感想である。今の番組を見ていてつまらんなぁ~と思うことがあるが、かといって昔を思い出しても、うーんどうなんだろうって。

その当時、私はテレビを好きで見ていた。じゃあなんで見なくなったのか。と聞かれたら、ネットの方がより自分に合っていて好きなものを見つけられたからだ。いまでも、実家に帰って番組表を見渡せば、わずかだが見たいと思う番組はある。高校生のテレビが好きだったころを思い返すと、わずかながら見たい例えば深夜番組とかをかかさずチェックしていた。量が増えているか減っているか厳密なところは分らないが…。

 

とはいいつつも、

つまらなくなったと指摘され、思いつくことは一つある。過激さだ。テレビは昔より過激さは減ったのじゃないかと私は思っている。自己規制という言葉が聞かれると大抵勢いがなくなる。そんなことはよくあることだ。

特に過激さを好む人(過激なことが面白いと思う人)は、今現在過激さについてはどう考えてもネットの方が上だ。そういう人はテレビはつまらなくなったと感じるかと思う。

じゃあなぜテレビは過激さを失ったかについてはまたの機会に。

 

*芸能人がキライになった*

芸能界、芸能人がキライになった。芸能人がわちゃわちゃ騒いでいるのも好きじゃないし、コメンテーター的な立ち位置の人も好きじゃない。

例えば、ドキュメンタリー的な番組があったとして、部分的に芸能人がコメントを挟むなら、そこは飛ばす。

全員が全員好きじゃないわけじゃない。好きな芸能人を答えろと言えば昔この人好きでしたはぜんぜん言える。

思い返すと高校生も卒業することには芸能人の好き嫌いは激しくなっていたかもしれない。大学に入ってからネットに浸り、二次元に浸り、その居心地の良さに、芸能人・芸能界のいやだなぁと思う部分が目立つように感じるようになった。そんな感じだろうか。

 

***

 

余談だが、芸能ニュースが特にキライ。これは高校のときからだが、芸能人の誰それが付き合ったとか別れたとか、訃報だとか、なになにがあっただとか。しかもキライで見た後いやな気持になるのに、正直なところ気になるというかそんなアンビバレンスな心理があった。今ではほとんど解き放たれて、芸能ニュースが気にならなくなった。というか知っている人もあまりでない。

 

*CMが異常にキライ*

ただそれだけ、CMを見るのが苦痛。番組と番組の間にだけ流れるならいくらか許せると思う。ただし、現状はそんなシステムになる見込みはない。

 

集中途切れる。番組の価値がほとんどなくなる。ただただサムい。番組の演出にCMの想定したものはもっとサムい。終わってる。

 

 

*世の中的にはテレビはちょー影響力がある*

つまらなくなったつまらなくなったと言われるけども、現状ちょー影響力がある。ツイッター見てても私のTLにアニメ以外のテレビのネタが放り込まれることはまずないが、ふいにヤフーのリアルタイム検索とかするのだが、そうするとテレビのことばっかりのように感じる。

ちなみに、テレビを全く見ない人は20代30代の一割程度の一部の層である。

 

 

*テレビの強さ*

なんといってもテレビの強さは能動的ではなく受動的であることだ。知り合いの弁護士がテレビは受動的であるゆえ最強、死なない。といっていたが、あまりにもネットに浸っている自分からすると、冷静だなと思った。

今の10代は生まれたときからネットがあり、小学生からスマホを持っているものの、そういう時代で育ってみても、やはり、人によってはグーグルで検索すらできないというか億劫というか興味がない人もいるようだ。(10年20年で変化の可能性はある)

 

子供でも高齢者でもスイッチをオンすれば、コンテンツが降り注ぐテレビは確かに最強かなと思う。

 

***

以上、もとテレビ好き現在ややアンチの人の思い出と感想でした。