ふらふらと生きる。

ルサンチマンオーラを身に纏う *** 京大の大学院に受かったことあります。が、笑えないほど底辺

働きかた生き方の多様性とか、自分と違うものを受け入れられるかとかとか

多様性についての記事をいろいろ読んだ。(注:実は3月の11日に書いた記事です。事情により今アップすることになりました。)

聞こえよく言えばキューレーション、悪く言えばパクリ記事みたいなのかきます。
どんどん話はズレるのでご了承下さい。ただ共通のテーマとしては自分と違うものを認めることができるか。みたいな感じです。
 

いばや通信「正解を増やす」複数記事、一貫した主張)

 
最初の記事の話でつきています。
多様性は善だけど、合意形成は必要悪。
やや関係のない話ですが、男女の役割に差をつけたほうが全体の安定性を保つうえで有効なのでしょう。(対象性があったら破れるものです。物理の話ですが)多様性はコストがかかるようです。
坂爪くんの必死の訴えも虚しく、日本は生き方の多様性は広がっていないし、選択肢を増やそうということは聞こえはいいですが、受け入れられないようです。
じゃあ、どうやって多様性を認められるようになるか、多様性を善と説いても受け入れられないでしょう。私は坂爪くんのいうようにおれはこうやって生きているんだと身をもって示すしかないようです。
 
日本は都市部などはいくらか違いますが、ほぼ単一民族の状態です。そして島国です。そもそも生まれてからみんな同じという感覚が植え付けられるのてしょう。
ただ勿論メリットもあって、日本は例えば世界一安全な国です。生き方働きかたとは関係がないですが、多様性がないことのひとつのメリットでしょう。(生き方の多様性が増えれば犯罪が増えるという話ではありません)
 
ノマドなどの新しそうなキーワード聞かれる一方で、自営業は年々少なくなっています。私は詳しくないので、会社の雰囲気が多様性が広がっているかはわかりません。また、自営業が広がることが多様性いうわけではないとは思います。(働き方の多様性とは何かについては何も詳しくないです。)
会社をやめてフリーでというのもいっぱいホッテントリに入ります。はてなーには、そうじゃなくても、変なひとが目立つような印象は強いです。はてな村とは言われますが、住み人は非常にカラフルなようです。
私の大学の先生で「一匹狼の群れ」という表現を使っていました。はてなーがオンor オフラインで交流することは素晴らしいことだと思います。
 
***
 
ズレる話になりますが、
好きなことをして生きるとか(youtuberとか)、称賛もありますが、ディスられることも多いです。
なんでおれはこんなに苦しんでいるのにお前は楽しそうに金得ているだと
気持ちは確かにわかります。一見ラクで楽しそうなことやって稼いでるときくと、「きー悔しい。」みたいには私もなります。
マンガのように、おれが、(会社で)苦しみ背負うかわりにお前だけでも(好きなことで)生きてくれ。とはなかなかならないものです。
phaさんのブログのコメント欄でもさんざん働けと非難さらていたのが印象に残っています。
 
多様性は良いといいつつ、好きなことで生きていけたらと思いつつ、自分はそうなれないから、お前も認めない。そんな心理は誰しも有りますね。
どうでもいいですが、ラクしてそうなのに儲けてるというのは、よほど屍が積み上がっているのだと思いますね。
 
***
 
これもやや話がズレますが、
虐待を受けたこどもが虐待をしてしまう説を聞くことがあります。
自分の小話になりますが、ラーメン屋でバイトしていたときに、厨房で間違えたときにゴミ箱を思いっきりけって怒鳴られたことがあります。そのとき、この店長さては修行先で同じことやられたなとあとで直感しました。(理由はありますが、省略します)
親or先生or先輩or上司にやられて嫌だったことは、自分がその立場にたったときにやらないようにしようじゃないか。
自分が××だったときはもっと厳しかったぞ、なんていってはいけない。
 
***
 
教育でも個性を伸ばす教育なんていう標語が聞かれたときもありました。私の戯れ言では、個性なんて伸ばさなくていいから、個性を潰さない教育になってもらいたいです。
 
自分語りしかできない私のブログでは他人の選択肢を増やすなんてことはできそうにないです。
それでも、読んで素晴らしいと思った記事は紹介したりするので、そっちで見識を高めてくれればいいかなって。
 
 

テレビについて思い出と感想

テレビについての思いでとか感想とか書く。

テレビ離れといわれ長いことなるが、実際私もだいたい8年前くらいからテレビは無い生活をしている。ネットの存在は大きくネットをするようになってから、だんだんテレビいらないんじゃないかと思ってきたので、そのままテレビも古いやつで邪魔だったので捨てた。

 

自分の立ち位置は先にいっておくと今ではテレビアンチに近くなっている。しかももともと好きだった人のアンチなんで、その前提で読んでいただきたい。

ちなみに、自分は高校卒業するくらいまではテレビばかという感じでテレビ大好き人間だった。ちょーテレビ見ていた。

 

*テレビはつまんなくなったのか*

ネットではよくテレビはつまらなくなった。昔は面白かったとよく言われる。

本当なのだろうか。

私はほとんど今では見る機会はないが、年に数回実家に帰った時に見るので、そのときだけの感想なのだが、

私が見ていた90年代から2000年代前半と比べて、私はつまんなくなったとは感じていない。あまり変わらないと思っている。別に具体例を上げてどうこうは言えないが単純な感想である。今の番組を見ていてつまらんなぁ~と思うことがあるが、かといって昔を思い出しても、うーんどうなんだろうって。

その当時、私はテレビを好きで見ていた。じゃあなんで見なくなったのか。と聞かれたら、ネットの方がより自分に合っていて好きなものを見つけられたからだ。いまでも、実家に帰って番組表を見渡せば、わずかだが見たいと思う番組はある。高校生のテレビが好きだったころを思い返すと、わずかながら見たい例えば深夜番組とかをかかさずチェックしていた。量が増えているか減っているか厳密なところは分らないが…。

 

とはいいつつも、

つまらなくなったと指摘され、思いつくことは一つある。過激さだ。テレビは昔より過激さは減ったのじゃないかと私は思っている。自己規制という言葉が聞かれると大抵勢いがなくなる。そんなことはよくあることだ。

特に過激さを好む人(過激なことが面白いと思う人)は、今現在過激さについてはどう考えてもネットの方が上だ。そういう人はテレビはつまらなくなったと感じるかと思う。

じゃあなぜテレビは過激さを失ったかについてはまたの機会に。

 

*芸能人がキライになった*

芸能界、芸能人がキライになった。芸能人がわちゃわちゃ騒いでいるのも好きじゃないし、コメンテーター的な立ち位置の人も好きじゃない。

例えば、ドキュメンタリー的な番組があったとして、部分的に芸能人がコメントを挟むなら、そこは飛ばす。

全員が全員好きじゃないわけじゃない。好きな芸能人を答えろと言えば昔この人好きでしたはぜんぜん言える。

思い返すと高校生も卒業することには芸能人の好き嫌いは激しくなっていたかもしれない。大学に入ってからネットに浸り、二次元に浸り、その居心地の良さに、芸能人・芸能界のいやだなぁと思う部分が目立つように感じるようになった。そんな感じだろうか。

 

***

 

余談だが、芸能ニュースが特にキライ。これは高校のときからだが、芸能人の誰それが付き合ったとか別れたとか、訃報だとか、なになにがあっただとか。しかもキライで見た後いやな気持になるのに、正直なところ気になるというかそんなアンビバレンスな心理があった。今ではほとんど解き放たれて、芸能ニュースが気にならなくなった。というか知っている人もあまりでない。

 

*CMが異常にキライ*

ただそれだけ、CMを見るのが苦痛。番組と番組の間にだけ流れるならいくらか許せると思う。ただし、現状はそんなシステムになる見込みはない。

 

集中途切れる。番組の価値がほとんどなくなる。ただただサムい。番組の演出にCMの想定したものはもっとサムい。終わってる。

 

 

*世の中的にはテレビはちょー影響力がある*

つまらなくなったつまらなくなったと言われるけども、現状ちょー影響力がある。ツイッター見てても私のTLにアニメ以外のテレビのネタが放り込まれることはまずないが、ふいにヤフーのリアルタイム検索とかするのだが、そうするとテレビのことばっかりのように感じる。

ちなみに、テレビを全く見ない人は20代30代の一割程度の一部の層である。

 

 

*テレビの強さ*

なんといってもテレビの強さは能動的ではなく受動的であることだ。知り合いの弁護士がテレビは受動的であるゆえ最強、死なない。といっていたが、あまりにもネットに浸っている自分からすると、冷静だなと思った。

今の10代は生まれたときからネットがあり、小学生からスマホを持っているものの、そういう時代で育ってみても、やはり、人によってはグーグルで検索すらできないというか億劫というか興味がない人もいるようだ。(10年20年で変化の可能性はある)

 

子供でも高齢者でもスイッチをオンすれば、コンテンツが降り注ぐテレビは確かに最強かなと思う。

 

***

以上、もとテレビ好き現在ややアンチの人の思い出と感想でした。

 

 

 

接客されるのが苦手。

私は接客されるのが苦手だ。

今回の話では、例えばコンビニだとか、吉野家的な飲食店の接客についてではなく、
家電量販店とか服屋とか楽器やあるいは、アパートを借りるときとか、けっこう単価が高いやつについてだ。
家電もほとんどアマゾンだし、服はあんまり買わなくなったし、楽器もヤフオクとか多いし、アパート借りるなんて2回しか経験ないのだけれど。
だから、最近あった出来事というより思い出的なやつだ。
 
 
*なんで苦手かを先に列挙する*
・押しに弱いこと、その場の雰囲気にのまれやすく、はっきり断れない性格であること。
・販売員をあまり信用していないこと(副次的な要因)
・人のせいにするのを常に避けたいと思っていること。
 
 
私は押しに弱い。なかなかノーと言えない日本人的なところがあり、その場の雰囲気にのまれ、本当はさっさと断りたいと思っていてもなかなかその場を終わりにできなかったりする。
そして販売員のいわば信用性なのだが、例えば本当のことを言っているのかとか。その辺も正直あやしいと思っている。あるいはメリットばっかりいっているんじゃないかとか。私は販売員をしたことはないのだが良い商品より売りたい商品を薦めてくるものだと思っているのだか違うのだろうか。そのあたりは販売店の状況にもよるし、販売員によってももちろん違うのだろう。
販売員というものは、信憑性にかけるものだと思っている一方で、個人単体では別に疑ってかかるようなことはしない。むしろ信用しやすい方だ。そういう性格なところも影響ある。だから、できるだけ冷静に販売員の言っていることは事情があるかもというのを思いだすようにしている。
 
***
 
正直値段の高い買いものでも、自分のスタイルに合わなかったりだったり、単純にあんまりいいと思えるものじゃなかったりで、使用頻度が少なかったりするものがある。
 
要するにあんまり”いい買い物”じゃなかった場合について、その場合どうしても私は販売店の人が思い出される。それが値段の高いものならなおさら。
ひとりでネットで買ったのなら、自分のせい以外の何物でもないが、接客があった場合どうしてもその人のせいとかではないのだけれど、何か自分の中だけで処理できない気持ちになる。私は日常生活あらゆる面で、他人のせいにするのを常に避けたいと思っているので、そのせいもあるかと思う。
 
*対策*
・アマゾンやネット販売を利用する。
・できるだけ即決しない。
 
ネットで買い物すればいい。もちろんそうだ。しかしながら、いくらネットであらゆるものが帰るといっても限界があり、必ず避けられるとも限らない。そのときはどうするか。
(ものを買うこと自体じゃなくて)人とのやりとりがありものを買う、あるいは対面で契約みたいなときは、できるだけ即決せずにねばるというのは実践している方法だ。いくらか冷静になれるのじゃないかと思うし、接客にあたった人にへたに押せば何とかなると思われないという意味でも有効ではないかと思う。
 
 
結局、接客というのは、物を買うというだけでなく、その人物を買うみたいなところが生じるということなのだろう。
そんなの私はいらない。
 
 
 

断捨離とかミニマリストとか

私はちょー部屋が汚くて、汚いんですが。片づけが下手とかってよりは片づけをする気が起きないんです。(他人の部屋ならちょーきれいにできますよ)

 

ところで、ミニマリストというのがだいぶ前から気になっている。それに関する最近回ってきた記事(ホリエモンのツイートから)

人生に疲れた1000万円プレイヤーがたどりついた「ミニマリズム」(最小限主義)という価値 | ログミー[o_O]

上の記事の人は欲望からの脱却というか管理みたいな感じがします。

 

ミニマリストとはまた違うものの、坂爪氏(ibaya)も過激で所有を否定するみたいなところに辿り着いています。

 

また、寝太郎氏という人も過激というか独自の世界観というか哲学に入っています。

10万円で家を建てて生活する寝太郎のブログ

 

一般的なミニマリストは、たぶん一番目の人です。下二人は過激派です。ミニマリストでググッて上の方に引っかかるブログが一般的なミニマリストであるかと思います。

 

***

 

そもそも断捨離とかいうあまり聞かない言葉が流行ったのが5年くらい前になるでしょうか。その辺ころはせいぜい要らないものを捨てることで部屋をきれいにしようとか。気持ちもスッキリするよとか。

要らないものがあると空間を占拠していることになるから、部屋買うなり借りるなりしてるってことは空間にお金を払っているわけだから、その分、要らないものを所有するのはゼロ円どころかマイナスだよとか。

その程度だったはず。たぶん。

 

で、そのうちにミニマリストという言葉も現れだした。断捨離の延長線にあるようだが、その姿勢は非常にストイックだ。

 

ミニマリストは物を少なくするという姿勢自体は共通ですが、その方針や思想はそれぞれあるようです。以下私感です。

 

ミニマリストなどのブログを観察して感じたことー備えと不安ー*

 

備えあれば憂いなし。とかいう言葉があったりして、いざというときを考えて、これもいるんじゃないかと考えたりする。

 

本来は”備え”があれば”心配”がないはずなのだが、どうも”備え”があることが、むしろ心配を想起させるといった感じである。

 

***

 

人間(生物)は、(平均)寿命伸ばし、種を反映させることを繰り返してきた。実際、寿命は伸び、人口密度は上がった。

貯蓄・備蓄というのは、(平均)寿命を伸ばすことには欠かせない。

 

ここで、幸福度とかいういまいち適当な言葉を使わしてもらうが、幸福度と寿命とはあまり相関が無いように感じられる。

 

貯蓄がある。すなわち”備え”があるということは、何か心配を抱えている。寿命は伸ばすことには成功しているが、幸福度は高くない。といった状況。

 

(勿論、貯蓄が全く無いのはそれはそれで心配であり、だから、”備えあれば”の言葉があるのである(過激なミニマリストは特殊)。貯蓄が増えれば心配は減少するが、程度を超えると逆に上昇するといったところか?

ツールあるいはデータとしてのお金があること、と実際のモノがあることは違うとは思う。デジタルデータについてはどうなんだとか、人間関係がとかいろいろある。)

 

今の時代、情報はあふれ、あっちでもこっちでも不安を煽られている。知識が多いというのは、それだけ心配の種を知っているということだろうか。

 

そのため、断捨離ブームから始まりミニマリストなんてのが話題になるのかもしれない。

 

ちなみに、日本人は世界でも例をみないほど貯蓄が好きだ、と世界をいっぱい旅した人の本に書いてありました。

 

*私の部屋について*

 

私も部屋が汚いのは、受け入れるとして、できるだけものを持ちたくないです。

ミニマリストレベルが5段階あるとしたら、私はレベル1くらいですね。

物質的な欲求は少ないのですが、ヘンなものを入手すると全く捨てられないというのが、私です。食べ物を貰ったりすると賞味期限までとっておくクレイジーな奴です。

(満喫いくから)マンガは一切ないです。CDもなくなった(データはある。オンラインもある。)。本(テキストの類)は多少ある、やむを得ない。ファッションについても部屋が汚いからあまり高い服買おうという気にならなくなった。(部屋汚いひとが高い服買うのはまずよくない)

ただ、楽器があるのです。ゲーム機もあるのです。どちらも稼働率はちょー低いのに捨てるというわけにも…。思い出に関するモノも全く捨てられません。

 

とにかく最初の引用した記事の写真にあった”箱のタワー”を作ります。

 

 

*おまけ*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「快感」

ことばに癒され、また、ことばに苦しめられる。

音楽に癒され、また、音楽に苦しめられる。
承認に癒され、また、承認に苦しめられる。
共感に癒され、また、共感に苦しめられる。
ひとに癒され、また、ひとに苦しめられる。
ネットに癒され、また、ネットに苦しめられる。
ドラッグに癒され、また、ドラッグに苦しめられる。
勝ち負けに癒され、また、勝ち負けに苦しめられる。

and so on.


※ドラッグとはアルコホールやタバコのことです。

何の計画もない人生

ブログタイトルを”非社会人の日記”から”何の計画もない人生”に変えようかと思います。

深い理由はないですが、なんとなく「タイトルがな~」ってのは、って思っていて、変えようかなって。落ち着きが良くなかったら、またすぐ変えます。

 

ちなみにだけど、社会人なんてことばは日本にしかないんだ。したがって社会人というのは何かしら日本人の特性を表すことばだと言える。私はその特性がないんじゃないかと思って、そういうタイトルにしたけど、少し後ろ向きな印象もするから変えてみようかなって。


さっきみつけたぐるりみちさんの引用にあったけど、

<a href"                 http://www.motojinji.com/2013/05/blog-post_31.html?m=1">ここ</a>に書いてある項目にほとんど当てはまるから、感覚として、社会人にあたわずと思ったのは当たっていた。


*何の計画もない人生*

実際、私なんの計画もなく生きています。

よく覚えているのは、高校3年生のときに勉強の計画たてろって先生に言われて、熱心に1時間以上かけてたてた計画を三日後に、「やっぱ無理でした。」って先生に言ったのを覚えています。

 

有言実行が極めて苦手である。私はするする詐欺だし、やめるやめる詐欺です。

どうにもならんのです。お叱りを受けることはしばしばです。

 

私の場合、思いつきで行動するというよりは、そのときやりたくないことはやらない。そのときやりたいことだけをやるという感じです。これからもそういう感じになると思います。

 

ちなみに、計画すればいいじゃんって思うかもしれないが、たいてい上手くいかなくてへこむだけです。有言も同じで有言してもできなくて、他人からディスられるだけなんであんま言いたくないんです。

 

ちなみに、現在無職なのは趣味の問題であって、決して就活に失敗したとか退職したとかではないです。

 

 

 

 

 

日雇いで働いてきたよ

私普段、家庭教師でどうにか暮らしていたわけですが、嬉しいことに教えてる子が大学合格しちゃったりして、空いてる日ができたりしたわけです。それで、日雇いで働いてみました。(はっきり言ってなかったけど、ブログで勉強についてとか教育についての言及が多いのは職業柄てきなものからです。)

 
*日雇いは気が楽*
日雇いとは気が楽なもので、明日働きたいと思えばそのときにスマホから登録して働ける。これはすごいです。勿論、それっきりでやめていいし、また入ってもいい。
 
過去にコンビニなんかでバイトしたりしたこともあるのですが、いきなりメールがきて、「この日(割りと直前に)入りませんか」ってなったりする。あれが面倒で私はどちらかというとノーと言えない日本人なので、実際予定もないのに断ったりすると、謎の罪悪感を覚えたりしました。
しかし、ネットの登録だと、「よしこの日に働こう」と思えばそれでいい。日雇いだからそれで終わり。素晴らしいです。
 
*工場でのライン作業を初体験*
今回の日雇いの内容がまた、非常にオモシロク。工場でのライン作業だったわけです。これはかなりいいです。
 
私の担当ですが、家電が中に入ったダンボールがライン(長い作業台)から送られてくるわけです。そのダンボールに、保証書をはったりシールをはる。ダンボールを閉じる。そして次に渡すわけです。
その作業手順は数分で覚えることができます。あとは、ずっと八時間それを繰り返す。
勿論、人と話すのは説明の数分だけ。あとはずっとシールをはったりダンボールを閉じたりするだけなんで、コミュ障でも安心です。
 
以前から私は機械になりたい。プログラムを書いてエンターを押したらあとは、その通りに動くようにならないかと。そう思っていたわけですが、今回それがついにかないましたね。
シールをはったりの作業はゆうたら、ほんの数行のプログラムです。イレギュラーが全くないわけではないですが、ほぼないといっていい。
一方、コンビニの仕事なんかもせいぜいマシーンじゃないかと思われるかもしれないが、プログラムを書こうと思ったら何十項目if文をかけばいいか分からないと思います。たぶんAIの方が近いです。(AIがマシーンかについては議論がありますが。)
 
*運動とかとか*
他にも、私は確かに東京だと歩くことは多いものの、椅子に座った仕事なので、慢性的な運動不足になっている。運動不足解消にもいいです。
あと
単純作業の繰り返しのせいか、体力的にきつくなってくるせいかはわかりませんが、何時間かたつと、いわば無心というか無想になる。これはいいですね。私なんかはずっといろんなこと考えているし、家帰って休むというときも、手からスマホ離すことがなかなかなく。常に何かしらの刺激にさらされている。そのため、あのような無心の状態も幾分思考の整理には必要かと。
 
*日雇いデメリット*
デメリットとしては、あまりの単純作業の繰り返しなので、これをすごく何年もやるとかってなると、いきなり気が重たくなるようです。
(日雇いにはそこまで単純作業じゃないものもあるかと思いますが、日雇いというシステム上ほかの仕事でも単純作業か、あるいは特に覚えたりすることなくできることでしょう。)
勿論日雇いなので、なにか経験として、自分のなかに積み重なる感じがしない。他のバイトなら接客業など、いくらか他に活きてくるような気がしますが、残念ながら日雇いではそういう何かは得られないような気がします。(だからいいのかもしれませんが)
 
*どんなひとがいた?*
時期なのか大学生っぽい感じのひとが多かったです。男が多かったけど、女性もいました。八時間立ちっぱなのは、私は少々きつかったですけど、チカラ仕事って感じではなかったので、女性も普通にできそうです。
ちなみに若そうな高校生?くらいから、50代くらいかなってひともいました。
まぁ私の年で日雇いやってるってのもヤバいわけですが。
 
こんな感じで初の日雇いのレポでした。
 
そんなこんなで、現在は家庭教師というより無職です。